石川カオリのブログ

NTHU ESS 大学生 ✈ 阪大工学部留学生(2015/09~2016/08)

日本李登輝友の会メールマガジン「日台共栄」[Vol.2907]

父、祖父と「二・二八事件」 一青 妙

 1947年2月28日、闇タバコ取締事件が民衆のデモを引き起こし、台北から台湾全土に広がっていった2・28事件では、実に多くの優れたエリートや前途有為の若者たちを中心に約3万人が無実の罪で虐殺されました。

 それから約50年後の1995年2月28日、台湾の李登輝総統は国家元首として、2・28事件の犠牲者と遺族に「政府が犯した罪」を認め、初めて謝罪の意を表しました。2006年には、張炎憲・國史館館長たちの地道な実証研究により、最大の責任は国民党政権最高権力者の蒋介石にあったことが判明しています。

 今年は2・28事件から70年の節目の年。本会でも、犠牲者の一人で台湾人初の検事だった王育霖氏を伯父とする台湾独立建国聯盟日本本部委員長の王明理さんを講師として台湾セミナーを2月18日に開き、2月26日からは『汝、ふたつの故国に殉ず』で犠牲者の弁護士、湯徳章氏の生涯を描いた門田隆将氏が台湾で講演をするということで「門田隆将先生2・28台湾講演ツアー」を実施しました。

 『私の箱子』や映画化された『ママ、ごはんまだ?』でご自分の家族を描いたエッセイストで歯科医の一青妙(ひとと・たえ)さんもまた2・28事件の遺族だったそうです。

 『私の箱子』には、台湾と日本の間で揺れる台湾屈指の名家「顔家」の長男だった父の苦悩や、帰った台湾で待ち受けていた2・28事件のことも描かれています。その父が日本へ戻ったのは漁船による密航だったとも書かれていて、2・28事件との関わり合いが示唆されていました。

 今回、一青さんがウェブサイト「現代ビジネス」に発表した「父、祖父と『二・二八事件』」では、祖父が2・28事件で犯罪者とされるも、6万坪の土地と引き換えに一命を取り留めたことなどをつづっています。

 一青さんもまた2・28事件の被害者家族でした。一青さんは「顔家と二・二八事件。これからも、わたしはあきらめずに調査を続けていく」と決然と述べ、筆を擱いています。
 
◆現代ビジネス:2017年4月13日 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51369

gendai.ismedia.jp

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父、祖父と「二・二八事件」

                   一青 妙(エッセイスト・女優・歯科医)

◆顔家の「家訓」

 わたしの父は台湾人で、「顔(がん)」という姓を持つ。

 台湾では顔姓はあまり多くはない。父の一族は多くの台湾人がそうであるように福建省からの移民で、台北から少し北の基隆(ジーロン)という場所に居を定めた。

 わたしも台湾では「顔妙」と名乗っている。そのあと「一族は基隆出身です」と話すと、台湾の人からはたいてい「ひょっとして、あの顔家ですか?」という反応が返ってくる。日本統治時代の台湾で、基隆から近い九?などの鉱山開発で財をなした顔家は「五大家族」にも数えられていたからだ。

 そんな顔家には、ひとつの「家訓」があった。

 「政治には関与しない」

 戦後、大陸からやってきた国民党政府による一党独裁が続いた台湾において、顔家以外の有力な財閥は、政府にうまく取り入り、事業を拡張した。

 しかし、当時の顔家の当主であった祖父・顔欽賢は、むしろ政治から距離をおき、世の中の流れに逆走するように、事業を縮小し、ひっそりと目立たぬように徹した。そのせいか、五大家族のなかで顔家は最も没落した存在になっている。

 祖父は酒豪で性格的に面倒見がよく、大風呂敷を広げる饒舌な性格だったと聞いている。本来は、一族の事業をさらに拡大できる手腕を持っていたはずだった。しかし、なぜ、そうしなかったのか。そのことがわたしにはずっと疑問で、家族の記録を調べているうちにたどりついたのが、「二・二八事件」だった。

 1947年に起きた二・二八事件は今日の台湾で知らない人がいない現代史上の重要な事件だ。228は中国語で「アーアーバー」と読むが、数字をそのまま言うだけで、二・二八事件について話していることが相手に伝わる。日本でいえば、「8月15日」が、おのずと「終戦の日」と受け止められる感覚に近い。

 二・二八事件は台湾に暮らす人々の運命を根底からひっくり返した。1945年に終戦を迎え、台湾は日本統治から解き放され、国民党率いる中華民国に接収された。台湾人の誰もが最初は「祖国復帰」を喜んだ。だが、現実は残酷だった。国民党による搾取が横行し、深刻なインフレに陥った。

 台北で闇タバコを売っていた女性に警官が暴行を加えた事件をきっかけに、日々募ってきた人々の不満は一気に暴発し、台湾全土に暴乱が広がった。のちに運動は武力で弾圧され、2万人を超える大量の犠牲者を生んだ。

 二・二八事件とわたしの顔家の関わりを知りたいと思ったが、顔家の親戚たちに尋ねても、「そんなことを調べてどうするんだ」と露骨に嫌な顔をされた。とにかくみんなそろって口が重く、たったひとつ知り得たことが、顔家は二・二八事件以来、「政治には関与しない」ことを決めたという事実だった。

 人の口から聞けないのなら、自分で調べてみるしかない。

 

◆半年におよぶ逃亡生活の末に…

 台北の中心部で、台北駅の南側に位置する「二二八和平公園」を訪れた。二・二八事件の際、台湾住民に蜂起を告知するのに使用したラジオ放送局の建物が「台北二二八紀念館」になり、二・二八事件に関する資料が展示されている。

 そこに祖父の名前を見つけた。

 「台湾省『二二八』事変自新?子名冊」(台湾省「二二八」事件自新分子名簿)と書かれ、ずらっと並んだ人名のちょうど真ん中のいちばん見やすい場所に、祖父の名前があった。

 姓名   顔欽賢
 略歴   台陽董事長 
      民社党台湾省党部主委
 犯罪事実 二二八事変処委会委員 
      組織煤礦忠義服務隊反抗政府
 住所   基隆市

 「犯罪事実」という文字に、衝撃が背筋に走った。祖父は、二・二八事件に関与し、「犯罪者」として位置づけられていたのだ。

 「台陽」は顔家の会社で、董事長は会長のことだ。犯罪事実のところには「二・二八事件処理委員会のメンバーであり、鉱山労働者の忠義服務部隊を組織して政府に反抗した」と書かれている。「忠義服務隊」は、動乱のなか民衆が自衛と治安維持のために組織したものだった。

 これらが記されていた「自新」とは一体何をさすのか。日本語からはちょっと想像がつかないが、後に調べたところ、自首は、犯罪発覚前に、自ら警察や検察に届け出ることにより、判決を受け、刑の軽減を得ることができる法律用語だという。自新を宣言した者には「更正」の証しである「自新証」が与えられた。

 祖父もまた、「自新」を宣言した一人だったのである。

 「自新」という事実で、ぼんやりとしていた祖父と二・二八事件との関係が、より具体的な姿に浮か上がった。祖父は犯罪者とされ、のちに「改心」を宣言することによって、罪を免れたのである。

 それから、わたしは、祖父が入っていたとされた二・二八事件の「処理委員会」について、情報公開請求などを通して一次資料を入手し、詳しく調べた。

 処理委員会は、当時の台湾の有力者、有識者メンバーが集まり、事件が起きた翌日の3月1日に成立した組織だ。委員会は国民党当局に政治改革要求を出した。だが、当初は交渉に応じる構えを見せていた国民政府側は、大陸からの派遣軍の到着を待って、強硬に転じた。処理委員会の解散を命じ、主要メンバーを指名手配犯とし、実力行使で鎮圧に乗り出したのだ。

 祖父を含めた委員会のメンバーは命の危険を感じ、直ちに逃亡を強いられることになった。実際には指名手配犯となった人物の多くは逮捕されないまま行方不明となり、秘密裏に処刑されたと言われている。

 祖父が家に戻れなくなった正確な日付はわからないが、1947年4月9日付の台湾省警備総司令部の通達で、祖父は「反乱要犯」の1人になり、別の文書では、2ヵ月後の6月にも同じく逃亡犯としてリストアップされている。祖父の逃亡生活はおおよそ長くても半年続いた、ということになる。

 では、なぜ、祖父は罪から免れたのだろうか。

 

◆祖父の命を救った「水面下の取引」

 基隆には、顔家の邸宅で6万坪以上の土地があった。それが政府に没収された過去は断片的に聞いたことがあった。

 基隆市の法務局に出向き、土地登記謄本を閲覧してみると、確かに、顏家の基隆の邸宅を含む膨大な不動産の多くが、すべて1947年4月21日付で基隆市政府のものになっていた。

 さらに驚かされたのが、この所有権の移動について、登記理由欄が「空白」となっていたことだった。理由を尋ねると、「普通、登記理由に『空白』はないわね」と調べてくれた法務局の女性職員も首をかしげた。

 きっと「空白」のうしろには、表に出せないことがたくさんあったのだ。祖父の命を救うため、何かの水面下の取引が働いたにちがいない。

 別の資料からは、父の3番目の弟の顔恵卿も逮捕されていたことがわかった。1932年生まれなので、二・二八事件が起きた年はまだ16歳だった。

 「外が危ないのを知らずに、街を歩いていたら連行されたがすぐに釈放された」

 そんなことを以前親戚から聞いたが、本人に聞いてみれば、「特になにかを取られたり、拷問を受けたりすることはなかったが、3週間は牢屋に入れられた」とだけ話してくれた。彼の釈放にもきっと何かの取引があったはずである。

 当時の台湾人の誰もが、苦渋の選択を迫られたにちがいない。財産を持っていた祖父らのような顔家の人々はまだ幸運だったとも言える。取引ができない人々は、無実のなかでろくな裁判もなく、命を奪われていったはずだ。

 顔家が政治から距離を置く理由を少しだけ、理解することができた。

 

◆蔡英文の演説に耳を傾けながら

 二・二八事件から70年となる今年、わたしは台北市で開催された追悼式典に被害者家族の一員として参加した。祖父が二・二八事件で「名誉毀損」を受けたことが、このほど認められたからだ。

 台湾政府がつくった被害者への補償を行う財団法人「二二八事件紀念基金会」に対して、わたしは「遺族の一人」として受難者賠償金を申請し、わずかばかりの賠償金が支払われた。だが、お金よりはるかに重要だったのは、祖父の名誉が回復されたことだった。

 ただ、祖父が被害者に認定されたことを報告すると、一部の親戚からは「余計なことをしてくれた」と非難された。それほど「家訓」の重みがあったということなのだろう。それでもわたしは、祖父は喜んでくれたと信じたい。

 今年の2月28日は2016年に政権交代を果たした民進党の蔡英文総統が就任してから迎える初めての追悼日でもあった。事件の真相究明に全力を挙げることを力強く語る彼女の言葉に、気づかないまま、涙が頬を伝っていた。

 そんな祖父の苦労を知っていた父は、二・二八事件が起きた直後に、留学先の日本から台湾に戻った。

 しかし、父を出迎えるはずの祖父はおらず、二・二八事件に続く、「共産党のスパイ摘発」に名を借りた白色テロでは、同じ大学で学ぶ同級生たちが捕まっていく姿を目撃し、父は台湾での生活をたった2年であきらめ、日本へ漁船による密航という形で引き返した。

 台湾で、父の親友だった同級生の一人を見つけたが、3年前に亡くなっていた。だけれども、残された奥さんから聞いた話では、祖父のことを、「金と引き換えに命拾いした人間」として、忌み嫌っていたという。

 父の友人のなかには、共産党員の活動や読書会に参加し、10年以上も監獄に入っていた別の同級生もいたことがわかった。もしかすると、父が密航という尋常ではない形で日本に渡り、台湾へ戻らなかった理由は、戦後の台湾の状況に失望し、同級生たちと一緒に読書会に参加したため、身の危険を感じたからではないだろうか。

 ただ、父が本当に読書会に参加していたかどうかは、まだはっきりとした証言や資料は手に入れていない。

 顔家と二・二八事件。これからも、わたしはあきらめずに調査を続けていく。それがわたしがいまここにいる意味を知ることにもなる。蔡英文の演説に耳を傾けながら、静かに、心のなかで誓った。